こんにちは。木地師の辻正尭(つじまさたか)です。
僕は年間350日くらい毎日仕事で椀木地を挽いています。
今日は能登に伝わる「合鹿椀の特徴」と「合鹿椀はなんのためにつくられたのか」についてお話ししていきます。

合鹿椀の歴史の予備知識

まず、文献に登場する合鹿椀で最も古いものは元禄7年(1694年)です。それ以前には合鹿椀の記録はありませんが、実際は元禄7年よりももう少し前から合鹿椀の原型となる形が出来上がっていたとみられています。

合鹿椀の形態は第一期~第八期に分かれており、原初形とそれ以降では特徴に大きな違いがあります。
合鹿椀は第一期~第八期に至るまで様々な変容を遂げており、そしてその後衰退しました。輪島塗の起源という説もある合鹿椀ですが、八期全体を見て合鹿椀の特徴を話すのは難しいため、今回は、本来の合鹿椀の特徴が最も当てはまる「第一期~第三期」をもとにお話しします。

合鹿椀はどこでうまれたのか

合鹿椀は、石川県の能登半島にある旧柳田村で作られていました。
旧柳田村には「合鹿(ごうろく)」という地区があり、この合鹿を中心に村全体で合鹿椀に関わる木地挽きや塗り、漆カキが行われていた記録があります。

旧柳田村 合鹿が能登半島のどこに位置するかは、以下の地図で示しました。

地図は、旧柳田村、旧能都町、旧珠洲郡がひとつに統合される前の能登半島の地図です。

旧柳田村は、「輪島塗」で有名な輪島市と、「あばれ祭」で知られる能都町宇出津(現在の能登町宇出津)、そして旧珠洲郡(現在の能登町内浦地区)、珠洲市の四方を港町に挟まれた海のない内陸の村です。
欅(けやき)の良材に恵まれた地域で、村で採れた欅を使い合鹿椀を作っていた事が分かっています。
少量ですが漆も自分たちで採取し、渋下地に使用していた柿渋も同地区で採取されていました。

合鹿椀の名称の由来

旧柳田村の中でも、もっとも合鹿椀をつくる職人が多くいた合鹿の地名が元となったと考えられます。
また、旧柳田村は高州山や鉢伏(はちぶせ)山、宝達山に囲まれており、それぞれの山麓が合わさった場所「合麓」に合鹿地区があります。合鹿地区とその周辺には、木地師が存在した形跡が多く発見されています。これらの木地師たちのことを能州木地師と呼びます。

合鹿椀の特徴

簡素なつくり

素朴で無駄のない形の合鹿椀は、特に第一期~第三期において作業工程も無駄がなく、第四期~第六期の発展期を除くと、黒漆のみを使用しており、輪島塗に見られる蒔絵などの加飾も一切ありません。
そのことは、村人が日常に使う食器として作られたことを表しています。
そして、長いあいだその形をほとんど変えることなく伝承されたのは、長い期間に渡って旧柳田村の中だけで使い続けられていたため、その形を変える必要がなかったからと考えられます。

合鹿椀は基本的に、飯椀と汁椀の二つからなる入子椀で1セットとなっています。
第一期の入子で見つかっている合鹿椀の形を図で見ると以下のようになります。

高台が高く作られている

合鹿椀のようにお椀の直径に対して高台がこれほど高いものは、歴史上あまりありません。
現在のようにテーブルなどがまだなく、囲炉裏を囲む食文化で合ったことから、高台を高くする工夫がされたのではないかと考えられます。
しかし、高台が高いのは組椀の内の飯椀のみで、汁椀の高台はそれほど高く作られていません。

図解に寸法を当てはめ改めて合鹿椀を見ると、飯碗の高台がいかに高く作られているかがわかります。

木地の特徴

現在の漆器、特に輪島塗等の漆器に比べ、かなり厚手に作られています。
前項の第一期合鹿椀の縁は4~4.5mmの厚さがありました。

材は木目の粗い木地の横木取りしたものを使っていますが、第三期になると、目の荒い欅に混じって横木取りの柾目(まさめ)材が使われ、材料の木材が良質になっていきます。

「横木取り」については以前こちらの記事に書きましたので、参考にしてください。

欅(けやき)の特徴についてはこちらの記事をお読みください。

写真は第一期の合鹿椀の図解を元に僕が作った合鹿椀の木地です。
入子の組椀になっており、左が飯椀、右が汁椀です。

重ねるとこのようになります。

図解を元に忠実に木地挽きしたため、形状は第一期のものとかなり近いです。
ただ、実際の第一期合鹿椀は、ほとんどを手斧で整形しているため、ハツリ後が残っていてここまで滑らかな木地ではありません。

しかし、図を元に木地挽きをすると、合鹿椀がいかに無駄のなく、美しい形かがわかります。

木地に布着せをしている

合鹿椀は椀木地の口縁や見込、高台縁に、麻などの目の粗い布を貼っています。これを「布着せ(ぬのきせ)」といいます。布着せは口縁の割れを防ぐなどの目的で、お椀の強度を上げるために使う技法です。

一般に漆器に布着せを行う場合には、布着せした上に下地や研ぎ、上塗りなどを施すため、布が見えないように作られます。
しかし、合鹿椀は漆を薄く塗っているために、口縁や高台縁の布が浮き出て見えます。このように、漆の塗り回数が少ないお椀に布着せを施して補強している漆器は、全国的にみてもあまりありません。お椀の強度を上げる目的ならば、漆を厚く塗れば強度が上がるからです。

しかし、合鹿椀は漆を節約したうえで強度を上げようとしたため、布着せをしていると考えられます。
そして結果として、浮き出た布着せが「合鹿椀の最も特徴的な部分」となったといえます。

塗りの特徴

下地には、炭粉を混ぜた柿渋を塗っており、その上に生漆(きうるし)または半透明の素黒目漆を薄く塗っています。下地に漆ではなく柿渋を使用したのは、漆を節約したためとみられます。
下地には安価な柿渋を使いその上に薄く漆を塗っていることからも、初期の合鹿椀はかなり合理的に作られており、合鹿椀が日常使いのためのお椀だったことが伺えます。

※素黒目漆とは、何も添加しないで精製した透漆(すけうるし)のことをいいます。透漆に顔料を混ぜると色漆になります。

手斧を主とした成形法から轆轤(ろくろ)中心の作業工程へ変化

第一期、第二期はほとんどの加工を手斧による荒木取りで行っていました。
椀の見込みと浅い高台内部には手斧でそぎ取った凸凹(ハツリ目あと)が残っており、そのころ重労働だった轆轤での作業を最小限にしていたとみられます。

しかし、第三期には轆轤での作業が増えていて、手斧によるハツリ目あとが減り、轆轤で挽いたとみられる轆轤目が均一に残っていることから、このころ轆轤挽きの技術が進化していたとみられます。

歴史上類似した椀が少ない

飯椀と汁椀の入子形式の二重椀

日本の食文化の基本である飯椀と汁椀の組椀の入子が本来の合鹿椀の形です。
飯椀のみで作られたものも存在しますが、それらは村の外への販売用に作られたとみられ、本来の合鹿椀の形式とは異なるものになります。

日本で古くから作られてきた入れ子のお椀には、二個、三個、四個、五個、七個等の重ねがありますが、飯椀と汁椀の二個の入子の形式で古い例は、合鹿椀以外にはないと言われています。

高台に朱漆の銘が書かれている

お椀の裏(高台)の中央に朱漆でその家の銘(名前がわかる印)が書かれています。
銘が書かれているのは入子の組椀で、飯椀単体で作られたものなどには書かれていません。
本来、組椀の入子椀として作られたことをみても、基本の合鹿椀には朱漆の銘が必ず入っていたと考えられます。

20個セットで作られた

合鹿椀は20個セットで飯椀、汁椀合わせて計40個の単位で作られていました。
そしてそれらは、真ん中を十字に仕切られた木の箱に収納されていました。
ちょうど合鹿椀20セットがピッタリ収まる木の箱が、旧柳田村合鹿からいくつも見つかっています。

合鹿椀は何のために作られたのか

ハレの日用に作られた

合鹿椀は嫁入り道具として娘に持たせるために作られていました。
平成5年に旧柳田村が発刊した「合鹿椀」には実際に嫁入り道具に持ってきたという村民の証言が書かれています。
また同書にもあるように、合鹿椀が20個の組で作られた理由は、家々の特別な行事のために備えられていたためと考えられます。

野外で使われていた

田植えなども「ハレの日」に当たり、田植えの際、農作業中の田んぼまで食事を運ぶ器として使われたとみられます。そのため、合鹿椀は別名「田植椀」とも呼ばれていました。

合鹿椀は野外での悪状況で幾度も使われ、手荒く扱われたためか、高台がひどく削れたものや、口縁が剥げたものが多く見つかっています。
そして、現存する合鹿椀は何度も塗り直された跡があります。
旧柳田村の村民はそれぞれの家に合鹿椀を20組持ち、何度も塗り直しをしながら、長い期間に渡って日常使いや様々な行事で合鹿椀を使い続けたと考えられます。

自分たちで作る、自分たちのためのお椀

これまでお話しした内容を踏まえても、合鹿椀は、旧柳田村に住む村民が自分たちの手で自分たちのために作ったお椀だったと考えられています。
そのため、簡素で、無駄がなく、幾度となく塗りなおされ、高台が欠けても、口縁が剥げても使い続けられ、長い間形を変えることなく伝承されました。

そんな合鹿椀は、第四期頃から発展期に入り原初形の特徴とは大きく違う変化を果たしていきます。これには、隣接する産地「輪島」やそのほかの産地の影響が少なからずあったと考えられます。

まとめ

今回は能登半島に伝わる漆器「合鹿椀」がどのように生まれ、そして使われていたかについてお話させていただきました。

今回の木地を書くにあたって、木地師や漆器の歴史に大いに触れるため、間違った情報を書いてはいけないと思い、平成5年3月31日に柳田村が刊行した「合鹿椀」を読み、参考、引用しています。
まだまだ明らかになっていないことが多い合鹿椀ですが、今後さらに歴史が解明されることを心待ちにしたいと思います。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございます。